「うちの介護事業所は売れるのか、いくらになるのか」——高齢化にともなう需要の高さとは裏腹に、経営者の高齢化と人材確保の難しさから、譲渡を検討する事業者が増えています。介護事業では、介護保険法上の指定を切れ目なく維持できるかが、M&Aのスケジュールと事業価値を大きく左右します。指定は取引の手法によって扱いが大きく異なり、当然に承継されるわけではありません。この記事では、価格の考え方と、株式譲渡・事業譲渡・合併・会社分割それぞれにおける指定の実務ポイントを整理します。
介護事業M&Aの相場観と評価を左右する要因
中小企業のM&A実務では、価格交渉の出発点として、時価純資産に正常収益の数年分を加える年買法(年倍法)という簡便な方法が用いられることがあります。ただし、これは一つの試算方法であり、正式な企業価値評価手法そのものではなく、介護事業の統一的な成約相場を示すものでもありません。
時価純資産は、貸借対照表の純資産に含み損益を反映させたものです。介護事業の場合、送迎車両や介護機器の含み損、保証金・敷金の実質価値などが調整対象になりやすい項目です。実質営業利益は、決算書上の営業利益をそのまま使うのではなく、オーナー社長への過大な役員報酬や事業に直接関係のない支出を調整し、代表交代後に必要となる管理者人件費を差し引いた後の利益で見ます。
数値例で見てみましょう。複数の訪問介護事業所を運営する法人で、時価純資産8,000万円、正常収益1,800万円と仮定します。この場合、営業権を3年分とすると、8,000万円+1,800万円×3年=1億3,400万円は簡便法による一つの試算額であり、実際の譲渡価格を保証するものではありません。相場の考え方は会社売却の相場はいくら?、年買法の計算方法は年買法(年倍法)による会社の値段の決め方でも解説しています。
この試算に加えて、稼働率・定員充足率、職員の定着状況(特定職員への依存度を含む)、指定の種類と数が価格に影響します。ただし、複数の指定を保有していれば一律に高評価というわけではなく、人員配置・加算管理・コンプライアンス管理の負担も増えるため、各サービスの収益性、継続性、人員充足、管理体制を踏まえて評価されます。
指定(許認可)の承継実務——スキーム別の違い
介護事業のM&Aで最も注意が必要なのが、介護保険法上の「指定」の扱いです。介護サービス事業者は、都道府県(または市区町村)から事業所・サービスごとに指定を受けて運営しており、この指定は指定事業者である法人に対して与えられるものです。
株式譲渡では、指定を受けた法人自体が変わらないため、指定は原則として継続します。ただし、代表者、役員、管理者、法人所在地、運営規程等に変更がある場合は、所管庁への変更届その他の手続を確認する必要があり、役員等の欠格事由、各種加算、人員・設備・運営基準を継続して満たすことも求められます。株式譲渡を理由として当然に新規指定審査が行われるわけではありません。
事業譲渡では、旧法人が廃止手続を行い、譲受法人が新規指定申請を行うのが基本です。指定日と譲渡実行日に空白が生じないよう、自治体の申請締切や審査期間を考慮し、早期に事前相談する必要があります。また、指定申請だけで利用者とのサービス利用契約、従業員との労働契約、建物賃貸借、取引先・リース契約、利用者負担金等の債権が自動的に移転するわけではありません。利用者契約は契約上の地位の移転又は新法人との再契約によりサービスの中断を防ぐ必要があり、労働契約の移転には原則として対象従業員本人の同意が必要です。
合併・会社分割では、法人格が存続するか、どの法人が当該事業所を運営していたかによって取扱いが異なります。吸収合併で存続法人が従前から運営していた事業所は指定が継続する場合がありますが、消滅法人が運営していた事業所や、会社分割により別法人へ事業所を移す場合は、承継法人による新規指定が必要になるのが基本です。自治体によっては、事業が実質的に継続される場合に提出書類を簡素化する取扱いがありますが、サービス種別・指定権者により運用が異なるため事前相談が必要です。
主なスキームごとの指定承継の違いは、以下のとおりです。
スキーム | 新規指定審査 | 実務上の留意点 |
|---|---|---|
株式譲渡 | 行われるわけではないが基準の継続充足が必要 | 変更届その他の手続を確認する |
事業譲渡 | 譲受側が新規に指定を取得する必要がある | 廃止手続と申請期間を見込んだ調整が必須 |
会社分割・合併 | 事業所を移す場合は新規指定が必要になるのが基本 | 自治体への事前相談が特に重要 |
これらの取り扱いは自治体によって運用が異なる場合があり、また制度改正も行われます。本記事の内容は一般論であり最新の要件は所管庁に確認することをおすすめします。
デューデリジェンスと売却前の準備
介護事業のM&Aでは、買い手による調査(デューデリジェンス)で以下の点が重点的に確認されます。
- 運営指導・監査の履歴、介護報酬の過誤請求・自主返還・過誤調整の有無
- 人員配置基準の遵守状況、常勤換算数、資格要件(基準違反は直ちに指定取消しになるとは限らず、報酬の減算・返還、改善指導、行政処分等につながり得ます)
- 加算・減算要件、処遇改善加算の計画及び実績報告、指定更新期限
- 利用者との契約状況(重要事項説明書、契約書、ケアプランと請求実績の整合)、利用者預り金
- 未払残業代等の労務債務、事故・苦情・虐待・身体拘束等の記録、事業所別収支
介護記録には要介護度、病歴、服薬、家族情報等が含まれ、特に慎重な管理が必要です。事業承継に伴う個人データの提供は、一定の場合には通常の第三者提供に当たりませんが、承継前の利用目的の範囲内で取り扱い、安全管理措置を継続する必要があります。交渉段階では、利用者を直接特定できる情報を最初から開示せず、匿名化・集計化した資料を中心に、必要最小限のアクセスに限定すべきです。
こうした点をあらかじめ自社で棚卸ししておくと、交渉がスムーズに進みやすくなります。職員体制の見える化、決算書の整理、指定関連書類(指定申請書、変更届、運営指導の記録)の整備が、価格と成約可能性の両方に効いてきます。
よくある質問
Q. 施設が賃貸物件の場合、賃貸借契約はどうなりますか。
株式譲渡であれば契約主体である法人が変わらないため、原則として賃貸借契約はそのまま継続します。ただし、賃貸借契約に「株主変更時は貸主の承諾を要する」旨の条項(チェンジオブコントロール条項)が入っている場合は、事前に貸主への説明が必要になることがあります。
Q. 複数の事業所を運営していますが、一部だけ売却できますか。
事業譲渡であれば特定の事業所だけを切り出して譲渡することが可能です。ただし、前述のとおり指定の再取得手続きが必要になるため、株式譲渡で会社ごと譲渡する場合に比べて手続き負担は大きくなります。
Q. 赤字の事業所でも買い手はつきますか。
既存の利用者基盤、職員体制、運営実績、設備、業務フローなど、指定基準を満たして事業を運営してきた事業基盤に価値を見いだす買い手はいます。ただし、事業譲渡では買い手による新規指定が必要になるのが基本です。役員報酬などの調整で実質的な収益力が変わる場合もあるため、赤字を理由に諦める前に一度相談してみる価値はあります。
手数料と税金の考え方
M&A支援会社の報酬体系は、算定基礎(譲渡額・株式価額・企業価値・純資産・移動総資産等)、最低報酬、着手金、中間金の有無が会社ごとに異なります。当社では、契約上定める移動総資産額(株式又は事業の譲渡価額に役員借入金その他の有利子負債の額を加算した額)を算定基礎とし、5億円以下の部分は5%、5億円超10億円以下の部分は4%、10億円超50億円以下は3%、50億円超100億円以下は2%、100億円超は1%を乗じて算定し、最低報酬は500万円(税別)です。基本合意時の中間金は成功報酬見込額の10%で、成約時に全額充当し、不成約でも返還しません。手数料体系は契約前に書面で確認することをおすすめします。
個人株主が非上場株式を譲渡した場合、課税対象は譲渡代金全額ではなく、取得費及び譲渡費用を控除した譲渡益であり、原則税率は20.315%(所得税15%+復興特別所得税0.315%+住民税5%)です。法人株主の場合は同じ課税関係ではありません。個別の適用は税理士等の専門家に確認することをおすすめします。
まとめ——価格だけでなく「指定の維持・再取得」も評価軸に
介護事業のM&Aは、稼働率・職員定着・指定の種類といった介護特有の要素が評価を左右しますが、価格算定はあくまで簡便な試算にとどまります。指定の取扱いは株式譲渡か事業譲渡・会社分割等かで大きく異なるため、価格交渉と並行して早い段階からスキームと指定の手続を検討しておくことが、スムーズな成約につながります。本記事の内容は一般的な整理であり、指定手続の詳細や最新の要件は所管庁にご確認ください。
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