「エンジニアが数人しかいない小さな会社でも売れるのか」——IT・ソフトウェア企業の経営者からよく寄せられる質問です。IT企業には受託開発、SES、自社プロダクト・SaaS等の異なる事業モデルがあり、評価の考え方も一様ではありません。決算書の数字だけでは測れない「人材」と「契約」の質が価格を左右する点は共通しますが、本記事の数値例は簡便法による試算であり、統一的な成約相場を示すものではありません。
この記事では、事業モデルごとの評価の違いと、価格を左右する契約・知的財産・情報セキュリティ・労務上の論点を整理します。
IT業のM&A相場の基本的な考え方
中小企業のM&A実務では、価格交渉の出発点として、時価純資産に営業権(正常収益の一定年数分)を加える年買法という簡便な方法が用いられることがあります。ただし、これは正式な企業価値評価手法そのものではなく、算定額が実際の譲渡価格になるわけではありません。IT企業の評価方法は、受託開発、SES、自社プロダクト・SaaS等の事業モデルによって異なり、本記事の計算例はすべてのIT企業に共通する成約相場ではありません。
- 受託開発: 受注残、顧客継続率、案件採算、検収、再委託、知的財産権の帰属
- SES: 稼働人数、待機率、単価、商流、取引先集中、派遣・請負の適法性
- SaaS: 継続課金、解約率、更新率、粗利率、顧客集中、顧客獲得費用、クラウド費用、成長率、返金義務
継続収益の安定性や成長性が高い場合には、簡便な年買法だけでは事業価値を十分に表せず、将来キャッシュフローや類似取引等を踏まえた別の評価方法が検討されることがあります。相場観の全体像は会社売却の相場はいくら?でも解説しています。
価格を左右する契約・知的財産・技術面のリスク
評価に影響する要因は、事業モデル共通の論点(継続課金の安定性、エンジニアの定着度と属人化の少なさ、取引先の分散度)に加え、IT特有の契約・知的財産・技術面のリスクが中心になります。
- 知的財産権: ソフトウェアの著作権は開発費を負担した会社に当然に帰属するとは限りません。従業員の職務著作の要件、業務委託先との著作権譲渡条項、著作者人格権の不行使条項、発注者との成果物・汎用部分・既存資産の帰属を確認します。特許、商標、ドメイン、ソースコード管理アカウント、アプリストア、デザイン・画像・フォント・学習データ等の利用権も対象です。
- OSS: 利用自体が問題なのではなく、使用OSSとライセンス条件、表示・ソースコード提供・再配布義務、既知の脆弱性、OSS利用ポリシー、外部委託先やAI生成コードの出所管理を確認します。
- 技術的負債: 保守性・安全性・変更容易性・運用継続性を損なう設計・実装・管理上の問題を指し、古い言語・フレームワークであること自体を意味しません。サポート終了、自動テスト・設計書不足、属人化、手作業デプロイ、依存ライブラリ更新不能等が典型例です。
- 情報セキュリティ: 漏えい・不正アクセス・重大障害の履歴、脆弱性管理、アクセス権限・退職者アカウント、多要素認証、APIキー・秘密鍵、クラウド設定、バックアップ・復旧テスト、委託先セキュリティ、SLA違反時の補償義務を確認します。案件の性質に応じて技術DDが実施されることがあります。
- 顧客データ・個人情報: プライバシーポリシー、利用目的、第三者提供・委託先管理、海外移転、保存期間、削除手続、過去の漏えい事故を確認します。交渉段階では匿名化・集計化、アクセス制限、秘密保持、不成立時の返還・消去を行い、自由に譲渡できる資産のように扱いません。
- 契約: 譲渡禁止、チェンジ・オブ・コントロール、再委託、検収、契約不適合責任、損害賠償上限、SLA、秘密保持、個人データ、自動更新・中途解約を確認します。株式譲渡では法人は変わりませんが支配権変更条項が問題となる場合があり、事業譲渡では相手方の承諾又は再契約が必要になる場合があります。
- SES・常駐開発: 契約名称だけでなく、顧客による直接指揮命令、勤怠管理、業務遂行方法、派遣事業許可、再委託・商流、個人事業主の労働者性を確認し、労働者派遣と請負・準委任の区分が適正かを検証します。
- エンジニア・キーパーソン: 買収後の在籍を保証するものではありません。株式譲渡では雇用主法人は変わりませんが、事業譲渡では労働契約移転に原則本人同意が必要です。継続意思、報酬水準、退職率、引継ぎ体制、インセンティブ設計を確認します。
数値例で見るIT企業の評価イメージ
具体的な数値でイメージをつかんでみましょう。時価純資産8,000万円、正常収益1,800万円のIT企業を想定します。役員報酬を調整する場合も、売り手経営者が担当する業務の代替人件費や、継続的に必要な開発投資・保守・セキュリティ費用を差し引いて正常収益を算定します。
受託開発中心で取引先が数社に集中し、技術が特定エンジニアに属人化している会社であれば、営業権の年数は2〜3年程度にとどまることが多く、評価額は8,000万円+(1,800万円×2〜3年)=1億1,600万〜1億3,400万円という試算になります。
一方、自社開発のクラウド型サービスで継続契約による安定収益があり、複数のエンジニアで開発体制が回っている会社であれば、8,000万円+(1,800万円×4〜5年)=1億5,200万〜1億7,000万円という試算もあり得ますが、いずれも計算構造を示す仮定であり、実際の譲渡価格を保証するものではありません。
よくある質問
Q. 赤字でも売却できますか。
A. 可能です。IT業は特に、エンジニアの技術力や顧客基盤そのものに価値を見出す買い手が存在します。役員報酬や一時的な投資費用を調整すると実質的には黒字、というケースも少なくありません。決算書の数字だけで諦めず、実質利益の観点から一度見直してみることをおすすめします。
Q. 個人開発から始めた小規模な会社でも対象になりますか。
A. なります。会社規模にかかわらず、早い段階から契約、知的財産、ソースコード管理、情報セキュリティ、属人化の解消に取り組むことで、買い手がリスクを評価しやすくなります。
Q. 手数料はどのくらいかかりますか。
A. M&A支援会社の報酬体系は、算定基礎(譲渡額・株式価額・企業価値・純資産・移動総資産等)、最低報酬、着手金、中間金の有無が会社ごとに異なります。当社では、契約上定める移動総資産額(譲渡価額に役員借入金その他の有利子負債の額を加算した額)を算定基礎とし、5億円以下の部分は5%、5億円超10億円以下の部分は4%、10億円超50億円以下は3%、50億円超100億円以下は2%、100億円超は1%を乗じて計算し、最低報酬は500万円(税別)です。基本合意時の中間金は成功報酬見込額の10%で、成約時に全額充当し、不成約でも返還しません。契約前に書面で確認することをおすすめします。
Q. 売却時の税金はどのくらいかかりますか。
A. 個人株主が非上場株式を譲渡した場合、課税対象は譲渡代金全額ではなく、取得費及び譲渡費用を控除した譲渡益であり、原則税率は20.315%(所得税15%+復興特別所得税0.315%+住民税5%)です。法人株主の場合は同じ課税関係ではありません。個別の適用については税理士等の専門家にご確認ください。
売却前に整理しておきたいチェックリスト
売却を検討し始めた段階で、次の項目を一度整理しておくと、評価・交渉の両面でスムーズになります。
- 事業モデル(受託・SES・SaaS等)別の売上・粗利、案件採算、受注残、顧客集中、解約率・更新率
- 主要取引先との契約書(準委任・請負の区別、チェンジ・オブ・コントロール条項を含む)
- 開発したソフトウェアの著作権の帰属関係、OSSライセンスの管理状況
- クラウド・ドメイン・アプリストア等のアカウント名義、ソースコード管理の状況
- 過去のセキュリティ事故の有無、顧客データの取扱い方針
- 業務委託エンジニア・SESの契約内容と労働者派遣・請負の区分、正社員との比率
- キーパーソンの継続意思、未完了案件の検収・返金・SLAリスク
- 決算書上の役員報酬・経費のうち、事業に直接関係のないもの
これらは短期間で完璧に整えられるものではありませんが、着手した分だけ評価と交渉の材料になります。簡便な評価方法の基礎については年買法とは何かもあわせてご参照ください。
まとめ——人材と契約の質を可視化することが評価を高める
IT・ソフトウェア企業のM&Aは、事業モデルによって評価の視点が異なり、契約・知的財産・情報セキュリティ・労務上のリスクが価格に大きく影響します。決算書の数字だけでなく、自社の「人と契約」の状態を可視化しておくことが、納得できる評価につながります。なお、本記事の内容は一般的な整理であり、契約・知的財産・労働者派遣等に関する個別の適用や最新の法令解釈は弁護士等の専門家にご確認ください。
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決算書の数字を入力するだけで、会社の概算価値をその場で確認できます。入力データは送信されず、ブラウザ内で計算されます。承継の方向性を考える最初の材料としてご活用ください。