中小企業のM&Aで手取りを増やす設計として、最も広く使われているのが役員退職金の活用です。譲渡対価の全額を株式の代金として受け取る代わりに、一部を退職金として受け取る——それだけで、売り手の手取りが数百万円単位で変わることがあります。この記事では、その仕組みと、買い手側のメリット、そして気をつけるべき限度を解説します。
この記事で分かること
本記事では、①退職金を挟むと手取りが増える税の仕組み、②買い手側にも利点がある理由、③勤続40年・総額2億円の具体的な試算例、④過大退職金と「退職の実態」という2大リスク、⑤配偶者・親族役員まで含めた設計、の5点を順に解説します。読み終えたとき、「自分の場合はいくらを退職金にすべきか」を専門家と議論できる状態になることがゴールです。
仕組み——対価の「受け取り方」を2つに分ける
通常の株式譲渡では、売却代金の全額が株式の譲渡対価で、譲渡益に約20%が課税されます。退職金スキームでは、これを2つに分けます。
たとえば総額2億円の案件なら、株式の譲渡代金を1億5,000万円、社長への役員退職金を5,000万円とする、という設計です。買い手にとっての支払総額は変わりませんが、売り手の税金の計算が変わります。
なぜ手取りが増えるのか——退職所得の3つの優遇
退職金には、他の所得にはない手厚い税制優遇があります。
第一に退職所得控除。勤続年数に応じた非課税枠があり、勤続20年超の部分は1年あたり70万円ずつ枠が増えます。勤続40年なら2,200万円が控除されます。第二に2分の1課税。控除後の金額の半分だけが課税対象になります。第三に分離課税。他の所得と合算されず、単独で税率が決まります。
この3つが重なる結果、退職金部分の実効税率は、金額や勤続年数によっては株式譲渡の20.315%を下回ることがあります。長年会社に尽くしたオーナーほど控除枠が大きく、恩恵も大きい制度です。
買い手側にもメリットがある
このスキームが定番になっている理由は、買い手にも利点があるからです。株式の取得代金は買い手にとって損金(経費)になりませんが、会社が支払う退職金は、適正額の範囲で損金に算入できます。つまり買い手は、同じ支払総額でも税負担を軽くできる可能性があるのです。売り手と買い手の双方が得をする配分を探れる——これが交渉材料としての退職金スキームの本質です。
最大の注意点——「過大退職金」のリスク
ただし、退職金はいくらでも積めるわけではありません。不相当に高額な退職金は、会社側で損金算入を否認されるリスクがあります。
実務では「最終月額報酬×勤続年数×功績倍率」という算式が広く参照され、功績倍率は社長で3倍前後が一つの目安とされています。ただしこれは絶対的な基準ではなく、会社の規模・業績・同業他社との比較などを踏まえた総合判断です。月額報酬を直前に引き上げて退職金を膨らませるような設計は、税務上の否認リスクを高めます。
また、退職金の支給には株主総会の決議など会社法上の手続きも必要です。金額の設定と手続きの両面で、実行前に必ず税理士等の専門家にご確認ください。
数値例——同じ2億円でも手取りはこう変わる
効果を数字で確認しましょう。勤続40年の社長が、総額2億円(株式の取得費1,000万円)で会社を譲渡するケースです。
全額を株式譲渡代金とした場合、譲渡益は約1億9,000万円(手数料考慮前)、税額はその20.315%で約3,860万円です。
うち5,000万円を退職金とした場合、退職金部分は、退職所得控除2,200万円(勤続40年)を引いた2,800万円の2分の1、1,400万円が課税対象となります。分離課税の累進税率を当てはめると、所得税・復興特別所得税は約315万円、住民税(退職所得の10%)は140万円で、退職金部分の税額は合計約455万円、実効税率は退職金額(5,000万円)に対して9%程度です。株式部分(1億5,000万円)の譲渡益課税約2,840万円と合わせると、税額合計は約3,300万円(住民税込み)。全額株式の場合(約3,860万円)と比べて約560万円、手取りが増える計算です。
もちろん、この効果は勤続年数・退職金額・報酬水準によって変わり、退職金を積みすぎれば逆に不利になる分岐点もあります。「いくらに設定すると全体最適か」は感覚ではなく、精緻な試算で決めるべき領域です。
「退職しても会社に残る」場合の落とし穴
M&A後、引き継ぎのために売り手社長が会社に残るケースはよくあります。このとき、退職金を受け取ったのに実態として経営に従事し続けていると、「本当に退職したのか」が問われ、退職金課税が否認されるおそれがあります。役職や報酬を明確に引き下げ、経営の主導権が移ったことを実態として示すことが重要です。引き継ぎ期間の設計は、税務とセットで考える必要があります。
配偶者・親族役員の退職金も同時に設計する
見落とされがちですが、退職するのは社長一人とは限りません。経理を担ってきた配偶者、役員に名を連ねる親族——M&Aを機に退任する役員それぞれに、勤続年数と職務に応じた退職金を支給できます。
各人がそれぞれの退職所得控除と2分の1課税を使えるため、一人に集中させるより世帯全体の手取りは改善しやすくなります。また、これまで功労に報いる機会のなかった配偶者へ、正当な形で資産を移せる機会でもあります。ただし、非常勤役員や実態の乏しい役員への支給は否認リスクが高いため、職務実態・勤続・報酬履歴の裏付けが取れる範囲で設計することが絶対条件です。ここも税理士等の専門家との事前の詰めが欠かせません。
まとめ——配分の設計は「最初」に決める
退職金スキームは、基本合意より前の価格交渉の段階から織り込んでおくべき設計です。最終契約の直前に持ち出すと、買い手側の税務検討が間に合わず、まとまる話もまとまりません。売却の税金の全体像は会社売却の税金をご覧ください。
当社では、株価の算定と退職金の設計を切り離さず、「支払総額◯円のとき、株式と退職金の配分をどうすれば世帯の手取りが最大になるか」という一体の試算としてご提示しています。数字の根拠を示しながら買い手側とも交渉できるのが、会計の専門家が仲介を担う利点です。個別の試算をご希望の方は、決算書と役員報酬の履歴をご用意のうえご相談ください。
事前相談は無料・秘密厳守です。/contact からお気軽にご相談ください。