「会社を売るなんて、従業員に申し訳ない」「先代から受け継いだ会社を手放すのは無責任だ」——M&Aの相談に来られる経営者の多くが、最初にこうした葛藤を口にされます。会社を売ることに後ろめたさを感じるのは、それだけ会社と社員を大切に思ってきた証拠です。しかし実際には、第三者への承継は「逃げ」ではなく、従業員の雇用と取引先との関係を守るための、経営者として最も責任ある決断の一つです。本記事では、その理由を廃業との比較を交えて具体的に説明します。
本当に従業員を苦しめるのは「売却」ではなく「突然の廃業」
後継者がいないまま経営者が高齢化し、体調を崩して事業の継続が難しくなったとき、待っているのは廃業です。廃業すれば、従業員は全員が職を失います。長年勤めたベテランほど再就職は簡単ではなく、地方であれば同業の受け皿すら限られます。取引先にとっても、長年の仕入先・外注先を突然失うことは事業上の大きな痛手です。
一方、M&Aによる第三者承継では、雇用の継続が譲渡契約の重要な条件として交渉されるのが一般的です。中小企業のM&Aにおいて買い手が求めているのは、設備や資産だけでなく「そこで働く人」と「築かれた取引関係」そのものだからです。人手不足が深刻な業種ほど、従業員の存在は買収の最大の目的になります。会社を残す手段があるのにそれを検討せず、時間切れで廃業に至ることのほうが、結果として従業員を苦しめてしまうのです。
「身売り」のイメージは大企業時代の古い常識
M&Aに「乗っ取り」「身売り」という否定的なイメージを持つ方は少なくありません。しかしそれは、敵対的買収が報道をにぎわせた時代の大企業の話です。現在の中小企業のM&Aは、売り手と買い手が合意のうえで進める友好的な承継がほとんどで、国も後継者不在問題への対応策として第三者承継を推進しています。
実際、経営者の高齢化と後継者不在を背景に、中小企業のM&A件数はこの10年で大きく増加しました。同業の経営者仲間が会社を譲渡していた、という話は今や珍しくありません。会社を譲ることは、時代の流れの中でごく一般的な経営判断の一つになっています。
売却が従業員・取引先・地域にもたらすもの
適切な相手への譲渡は、単に現状を維持するだけではありません。買い手の資本力によって老朽化した設備が更新される、買い手の販路に乗って売上が伸びる、グループの福利厚生制度が適用されて従業員の待遇が改善する——こうした変化は、譲渡後の会社で実際によく起こることです。
- 従業員:雇用が守られるだけでなく、大きな組織の一員として昇給・キャリアの選択肢が広がる可能性がある
- 取引先:取引関係が継続し、供給や発注が途切れない。買い手の信用力で取引が安定することも
- 地域:事業所と雇用が地域に残り、技術やサービスが失われない
- 経営者自身:株式の対価を受け取り、個人保証からも解放されて、安心して次の人生に進める
「守れる売却」にするために経営者がすべきこと
もちろん、誰に売ってもよいわけではありません。従業員と取引先を守れるかどうかは、相手選びと契約条件で決まります。具体的には、次の点を意識してください。
第一に、価格だけで相手を選ばないことです。提示額が最も高い相手が、最も従業員を大切にしてくれる相手とは限りません。買収の目的、譲渡後の運営方針、過去の買収先での対応を確認し、経営理念や社風が合うかを見極めることが大切です。第二に、雇用や労働条件の継続を基本合意書や最終契約書に条件として盛り込むことです。口約束ではなく書面に残すことで、譲渡後のトラブルを防げます。第三に、時間の余裕を持つことです。売り急ぐほど相手を選べなくなります。心身ともに元気なうちに動き始めることが、条件交渉の余地を生みます。
数字で比べる——廃業とM&Aで手元に残るもの
感情面だけでなく、経済面でも比較してみましょう。廃業の場合、資産は事業をやめる前提の処分価格でしか売れません。機械設備はスクラップ同然、在庫は投げ売り、そこから従業員の退職金、店舗・工場の原状回復費、廃棄物処理費などを支払います。長年黒字だった会社でも、清算してみると手元にほとんど残らなかった、という話は決して珍しくありません。
一方、M&Aでは会社は「生きた事業」として評価されます。設備は稼働している状態の価値で、取引先との関係や従業員の技術は営業権として、価格に反映されます。さらに株式譲渡であれば、譲渡益への課税は約20%の分離課税で済み、経営者個人の手取りという点でも有利です。もちろんすべての会社が高値で売れるわけではありませんが、「廃業なら確実にこうなる」という数字と「M&Aならこの範囲がありうる」という数字を並べてから決断しても、遅くはないはずです。この比較試算は、決算書があれば専門家が具体的な数字で示すことができます。感覚ではなく金額で見比べることが、家族や幹部との話し合いでも説得力のある材料になります。
よくある質問
Q. 売却を検討していることを、従業員にはいつ伝えるべきですか。
原則として、最終契約の締結まで(少なくとも基本合意まで)は、ごく一部の幹部を除いて従業員には伝えないのが実務の鉄則です。早い段階で情報が広がると、不安から退職者が出たり、取引先に伝わって信用問題に発展したりして、交渉そのものが壊れる恐れがあります。従業員への開示は、雇用条件の継続が契約で確定した後に、経営者自身の言葉で丁寧に行うのが、結果として従業員を最も守る進め方です。
Q. 先代や親族に反対されそうで踏み切れません。
創業家にとって会社への思い入れは当然のもので、反対されると感情的な対立になりがちです。有効なのは、感情論ではなく数字で語ることです。廃業した場合の手取りとM&Aの場合の手取り、従業員の雇用がどうなるか、取引先への影響——具体的な比較材料を揃えると、議論は「売るか売らないか」から「会社と家族にとって何が最善か」に変わります。第三者である専門家に説明役を担わせるのも一つの方法です。
Q. 譲渡後、経営者はすぐに会社を離れるのですか。
多くの案件では、譲渡後も一定期間(数か月〜2年程度)、前オーナーが顧問や相談役として引き継ぎに協力します。取引先への紹介、技術やノウハウの移転、従業員の心理的なケアなど、円滑な承継には前オーナーの協力が欠かせないためです。引き継ぎの期間・役割・報酬は最終契約で取り決めます。「売ったら即座に放り出される」わけではありませんので、ご安心ください。
実務のポイント——「売るかどうか」を決める前に相談してよい
M&Aの相談は、「売る」と決めてからするものではありません。むしろ、売るべきかどうか迷っている段階でこそ、専門家に相談する価値があります。自社にどの程度の価値があるのか、どんな買い手が想定できるのか、廃業した場合と比べて手取りがどう変わるのか——判断材料を揃えたうえで、売らないという結論に至っても構わないのです。会社と従業員の将来を真剣に考えるからこそ、選択肢を早めにテーブルに載せる。それは逃げではなく、経営者にしかできない仕事です。
売却を決めていなくても、ご相談いただけます
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