会社の売却価格は、決算書に載っている純資産の額だけでは決まりません。長年かけて築いた取引先との関係、従業員の技術、地域での信用、収益を生み出す仕組み——こうした「目に見えない価値」が、営業権(のれん)として価格に上乗せされます。中小M&Aの価格交渉では、この営業権をいくらと見るかが最大の論点になります。本記事では、営業権の実務的な評価方法と、「実質利益の何年分」という相場の考え方を解説します。

営業権(のれん)とは何か

営業権とは、会社の収益力のうち、個々の資産の価値では説明できない超過収益力を指します。同じ設備・同じ立地で事業を始めても、既存の会社と同じ利益をすぐに出せるわけではありません。顧客基盤、仕入ルート、熟練した従業員、業界での評判——ゼロから作れば何年もかかるこれらの価値を、買い手はお金を払ってでも手に入れたいと考えます。その対価が営業権です。

重要なのは、営業権は貸借対照表には載っていないということです。決算書の純資産が5,000万円の会社が1億円で売れるとき、その差額5,000万円が営業権にあたります。逆に言えば、決算書だけを見て「うちの会社は大した値段にならない」と判断するのは早計です。

中小M&Aの実務で使われる「年買法」による評価

中小企業のM&Aで最も広く使われる価格の目安は、「時価純資産+営業権」という考え方です(年買法・年倍法と呼ばれます)。このうち営業権は、次の式で概算します。

営業権 = 実質利益(正常収益力) × 評価年数(2〜5年程度)

ここでいう実質利益とは、決算書の利益をそのまま使うのではなく、会社の本来の収益力に引き直した利益です。具体的には、営業利益をベースに次のような調整を行います。

  • 役員報酬の適正化:オーナーが多めに取っていた報酬を、雇われ社長の相場水準に置き換えて利益に加算
  • オーナー関連経費の除外:事業に必須でない車両・保険料・交際費などを利益に戻す
  • 一時的な損益の除外:不動産売却益や災害損失など、毎年は発生しない項目を除く
  • 減価償却の正常化:償却不足があれば適正な償却額に引き直す

この調整を行うと、決算書上は利益が薄い会社でも、実質利益では十分な収益力があると評価されるケースが少なくありません。節税を優先してきた中小企業ほど、この差は大きくなります。

「何年分」が相場か——評価年数を左右する要因

実質利益に掛ける年数は、実務ではおおむね2〜5年、中心的なゾーンは3年前後です。ただしこれはあくまで出発点で、実際の年数は事業の質によって上下します。

年数が伸びる要因

年数が縮む要因

利益が安定・成長している

利益の変動が大きい・減少傾向

継続的な契約・リピート顧客が多い

スポット取引が中心

取引先が分散している

特定の取引先に売上が集中

社長がいなくても回る組織

売上が社長個人の人脈・技術に依存

許認可・免許など参入障壁がある

誰でも参入できる事業

とくに「社長依存度」は買い手が必ず確認するポイントです。社長が引退したとたんに顧客が離れる会社では、超過収益力の持続性が疑われ、営業権は低く評価されます。逆に、番頭役や現場リーダーが育っていて組織で顧客を維持できる会社は、同じ利益水準でも高い年数がつきやすくなります。

計算例——実質利益2,000万円の会社の場合

時価純資産6,000万円、決算書上の営業利益1,200万円の会社を考えます。オーナーの役員報酬が相場より800万円多く、事業に不要な保険料等が200万円あったとすると、実質利益は1,200万円+800万円+200万円=2,200万円。仮に評価年数を3年とすれば、営業権は2,200万円×3年=6,600万円となり、株式価値の目安は時価純資産6,000万円+営業権6,600万円=1億2,600万円です。決算書の純資産だけを見た場合の2倍以上の評価になる——これが営業権の力です。

業種によって変わる営業権の見られ方

営業権の評価水準は、業種の特性によっても傾向が分かれます。調剤薬局や介護事業のように、許認可・指定と安定的な収益構造を持つ業種は、収益の予測可能性が高いため相対的に高い年数がつきやすい分野です。建設業や運送業では、許可や車両・人員の確保が難しくなっている市況を背景に、有資格者やドライバーといった「人」の存在自体が営業権の源泉として評価されます。

一方、飲食業や小売業のように参入障壁が低く立地への依存が大きい業種、あるいは流行の影響を受けやすい業種では、超過収益力の持続性が慎重に見られ、年数は控えめになる傾向があります。IT業界では利益の倍数ではなく売上高や技術者数を基準に語られることもあり、業種ごとの「相場観」を知っておくことは、自社の評価を受け止めるうえでも、交渉で主張を組み立てるうえでも役立ちます。自社の業種でどの要素が評価されやすいかは、類似の成約事例を知る専門家に確認するのが近道です。同じ業種でも、地域性や事業規模、取引構造によって評価のされ方は変わるため、複数の視点から自社の位置づけを掴んでおくと交渉で慌てずに済みます。

よくある質問

Q. 赤字の会社に営業権はつかないのですか。
決算書が赤字でも、営業権がゼロとは限りません。前述の実質利益への調整(役員報酬の適正化、オーナー関連経費の除外など)を行うと実質的には黒字、というケースが実際に多くあります。また、利益以外にも、許認可、優良な顧客リスト、確保が難しい人材、好立地の店舗網など、買い手にとって「時間を買う」価値があれば価格はつきます。赤字だからと諦める前に、実質収益力と資産内容を整理してみる価値は十分にあります。

Q. 営業権の評価は誰が行うのですか。
中小M&Aでは、最終的な営業権の額は「鑑定」ではなく売り手と買い手の交渉で決まります。仲介者や専門家が年買法などで算出する評価額は、あくまで交渉の土台となる目安です。だからこそ、売り手側も自社の実質利益と強みを裏付けるデータを準備し、根拠を持って主張できるようにしておくことが、価格に直結します。

Q. 相続税評価の自社株の金額とは違うのですか。
まったく別物です。相続税や贈与税のための自社株評価は、国税庁の財産評価基本通達に基づく画一的な計算で、M&Aの取引価格を求めるものではありません。実際、税務上の評価額とM&Aでの売却価格が数倍違うことも珍しくありません。「顧問税理士に自社株の評価額を聞いたことがある」という場合でも、それは売却価格の目安にはならない点にご注意ください。

実務のポイント——営業権は「磨いてから売る」ことができる

営業権の評価は交渉開始時点で固定されるものではなく、売却準備の中で高めることができます。社長業務の権限移譲を進める、主要顧客との取引を契約書として整備する、属人的なノウハウをマニュアル化する——こうした「磨き上げ」は、評価年数を引き上げる直接の材料になります。なお、年買法による計算はあくまで交渉の出発点となる概算であり、最終価格は買い手との交渉と デューデリジェンスを経て決まります。まずは自社の実質利益と時価純資産を把握し、現在地を知ることから始めましょう。

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